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2008年12月の11件の記事

視聴率至上主義と、報道の美学のバランスは可能か?

TVは視聴率がすべてなので、一定のルールのもとで、知恵の競い合いが起こり、結果的に番組が面白くなるという、良い意味での競争のメリットがあります。しかし、やはり常に「度を超す」こともあって、いたずらに視聴者の好奇心や不安を煽って、視聴率を稼ごうとします

今回のニュースも、その「度を超す」事例です。
以下、朝日新聞(asahi.com)からの引用です。

TBSが昼の情報番組「ピンポン!」で、トヨタ自動車の業績悪化で大幅な税収減となる愛知県田原市について「道路は穴が開いても放置」と誤った内容を伝え、市の抗議を受けて謝罪していたことが分かった。
 田原市にはトヨタの工場があり、今年度に約70億円を見込んでいた法人市民税の大半を失う見通し。田原市の財政を取り上げた12日の番組で、アナウンサーが「道路は穴が開いても放置、河川ははんらんするかもしれない」「小中学校の耐震化工事ができなくなり、市内の小中学生は心配」とコメントした。
 これに対し、市は「(道路や河川を含め)公共施設などの維持管理に関する予算は的確に確保する」「小中学校の校舎のうち98.4%が耐震化工事を完了済み。残る棟も設計は完了し、耐震化率は全国でもトップレベル」とTBSに文書で抗議するとともに、市のホームページで「バラエティー仕立てで放映されたことは遺憾」と反論した。
 TBSは「取材に甘さがあった」と市に電話で謝罪し、どう対応するかを両者で話し合っている。

番組ディレクターの確信犯でアナウンサーにそう話をさせたのか、アナウンサーがアドリブで受けを狙ったのか。 いずれにせよ、「インパクトがあれば、何でもOK」というメンタリティーがあるからこその結果で、プロ意識が全くない、ダメダメなTBS社員です。

報道は「事実は何か?」という部分を突き詰めて、問題提起をするのが本質ですが、「事実は何か?」を突き詰めるのは難しく、また状況も複雑で、断定的な結論も言いにくいという、テレビ的には、わかりにくい番組になりかねないという構造的な問題があります。
TVで報道を行う難しさです。 わかりにくいのは視聴者的にも、詰まらないので、視聴率が上がらないという可能性もあり、どうしても、わかりやすい、エンターテイメント的な報道番組になってしまうものです。
つまり、「事実は何か?」を突き詰めるのではなく、嘘にならない範囲で、視聴者のニーズや感情に直結する番組を作る形になってしまいます。

その構造に流されてしまうのは、単なるサラリーマンで、ジャーナリズムを担っているというプロ意識があるならば、「事実は何か?」と、「視聴率を取る」という二律背反のギリギリを追求するという姿勢が必要です。
でも、こういったプロ意識は、視聴率競争がすべての世界では必要ないのかもしれません。

結局、「プロ意識なんて、そんなの関係ねぇ」と視聴率だけの亡者なのか、「大きな影響のあるTV番組であるからこそ、プロ意識はギリギリ保つ」と踏ん張るのか、仕事に対する姿勢の持ち方だと思います。
社会の中の報道という仕事の美学みたいなものだと思いますが、こういった美学をトップが持ち続けないと、現場は、やっぱり視聴率至上主義にならざるを得ないと思います。

たぶん、TBSの報道部門、編成部門、社長がダメダメなのかもしれません。この傾向が加速すると、ポピュリズム、つまり、市民の「目先の損得勘定」「不安感情」で、世論が決まってしまう流れができやすくなってしまいます。
マスコミには、ぜひ踏ん張ってもらいたいです。

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身近な幸せばかり考えていないで、たまには国を考えろ!

大いなる陰謀】 米国映画 2007年

Lions_for_lambs ロバートレッドフォード監督の、政治色の強い映画です。 こういう映画がたくさん出てくるというのは、アメリカの特徴でもあり、強みなのでしょうか。

ストーリーは、3つのモチーフで組み立てられています。
ひとつは、優秀だけれども、ニヒリズムに逃避して、結果としてくすぶっている大学生と、その可能性を引き出そうと努力する教授のやり取り。
二つ目は、野心たっぷりの上院議員が、独善的な対テロ戦争の意義と戦略を、ジャーナリストに語り、そのネタをどう扱うべきか、苦悩するジャーナリスト。
三つ目は、「国のために」具体的に何かをすべしと、軍に志願したマイノリティ米国人学生が、対テロ戦争に参戦し、実際の戦地で(トラブルで)孤軍奮闘するシーン。

監督は、「結論を出さない」と言っていますが、
・若いヒトが、身近な幸せで人生を語るのでなく、身近な幸せを成り立たせている「公共=国=世界」にも目を向けて、人生を考えてもらいたいし、それは可能のはずだ
・「国」の暴走をチェックするジャーナリストが、エンターテイメント一色のマスコミに埋没し、本来のジャーナリズムの機能を失っている。 しかし、それを危惧しているジャーナリストも、まだいっぱいいるはず
・「国のため」と、悲劇的に、命をなくしている兵士がいっぱいいる事実は大きく、戦地にいっていない我々は、思考を止めるのではなく、何らかの意見を持つべき
というニュアンスを感じます。

自分の生活が成立している、大きな部分、つまり「国」「世界」に目を向けよ、というメッセージで映画が成立し、それを見に行く観客がたくさんいるという事実は、アメリカの民度はやはり高いのでしょうか。
セリフも多いし、動きも少ないし、エンターテイメント的には本当に厳しい映画のような気がしますが。

「国のために」というと、日本の場合は、どうしても第二次世界大戦の、無謀な国家動員に繋がってしまうので、なかなか堂々と語れないのが辛いですが、何千万、何億人の人々がそれなりのルールに従って、将来に不安を持たず暮らしていけるのは、やっぱり、国というシステムがまわっているからで、そのシステムの回し方について、議論し合うというのが、民主主義であったりするわけです。

成熟社会では、あまり国のシステムを意識しなくても、そこそこシステムが回ってしまうので、システムを気にするよりも、身近な幸せや仕事のことを考えるというのが合理的なので、仕方ないことですが、システムは制度疲労を起こしたり、暴走したりするので、何らかのチェック・牽制、軌道修正が必要なのです。それを皆でやるのが民主主義なのですが、成熟社会では、その手間を皆がかけたがらないので、一部のエリートが、それを見越したうえで、ストイックに頑張らないといけません

というと、普通の方をちょっとバカにしている感じかなぁ? そのようなつもりはないんだけどね。

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公務員の給与水準は、いかにあるべきか?

【いろいろ理由をつけて、やりたい放題】読売新聞 2008年12月17日

日本貿易振興機構や都市再生機構など、メジャーな独立法人が、勝手に手当(食事手当)を作って、職員の給与を底上げしていたというニュースです。 会計検査院の調査結果を、新聞各社がそのまま報道しています。(こういうのは、記者か、政治家によってあばいてもらいたいものです。)

その理由は、「管轄する霞ヶ関の役所には、安い社食があるのに、自分たちには食堂がなくて、不公平だから」だそうです。ならば、「納税者の7割が所属する中小企業並みの、手当や退職金」にしてもらいたいものです。
この手当は、法律的にもNGですが、常識的にもNGです。 こういうことを堂々とやってしまうあたりが、やっぱり公務員の感覚は、ずれているのかなぁ?

「見つかるまでやってしまおう」という確信犯なのか、「え、ダメなの?」という世間知らずなのか?

公務員(および税金で成立している独立行政法人)の給与はどれくらいであるべきか?という、永遠のテーマがあります。
民間の中小企業以上の給与水準に準じるように算定されているようですが、その中身はブラックボックスです。 世の中の中小企業の社員から見れば、「そんなにもらっているとは思えない」水準だと思います。 とんでもない「計算のカラクリ」があるような気がしますが。

この辺を、正面から分析してもらいたいのですが、自民党は役人の協力が欲しいからノータッチだし、民主党も、役人労働組合から支持をもらっているので、ノータッチと、誰も分析するヒトがおりません。
(ちなみに、補助金で成り立っている学者にとっても、アンタッチャブルな内容です)

マスコミしかおりません。 読売新聞さん、頑張って。 って、無理か、笑。自分でやるしかないかな。

個人的には、公務員の給与水準は現状くらいでいいと思います。 ある程度高いことによって、気持ちに余裕をもって仕事ができます。 結局、仕事内容が給与に見合っていないというのが、現状だと思います。 牽制機能が働いていないので、いつの間にか、自分たちが自分たちで仕事内容を決める形になってしまっているのだと思います。 そうならば、普通、「自分たちにとって、都合の良い」仕事、仕組み、内容になるのは当然です。

公務員の仕事は何か、それはしっかり行われているかということを、行政組織の外側で明確にしない限り、行政が勝手に自分の仕事を、都合良く決めてしまうわけです。

それをするのが、政治家(議会や組長)なのですが、全然やっていないというか、そもそも、そのような意識もないし。 仕事は、「支持団体にとってプラスになることを合法的に作り出す」と、真面目に思っている政治家も多いし。 

公務員、つまり「公」の仕事は何か、それをどうやって達成するか、そういったテクニカルな運営哲学が、政治家には必要だと思います。 そういったことを語れる政治家になりたいものです。

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官僚が駄目なのは、政治家が駄目だから

【どうして官僚は駄目なのか?】

多くの方が既に、同様の内容で意見を言われていると思いますが、私も一度は、自分なりの意見を表明したいと思います。

どうして官僚は駄目なのか?

駄目とは、アウトプットのクオリティーが低いし、効率も悪いし、自己保身的ということ。 ひとりひとりは素敵な方かもしれないけれど、組織としては、ダメダメの結果しか出せないということ。

アウトプットのクオリティーがあがらないのは、競争がないし、向上心がないし、最後の責任を誰も取らないから、必然的に「ユルユル」になる。 効率もあがらないのも、同様。 自己保身的になるのは、人間の性。 普通は、何らかの牽制機能が働いてバランスを取るのだけれども、役人の場合、牽制機能がほとんどない。 合法的に楽して、仕事における貢献よりも、自己の保身が常識という、人間の悪玉が全面的に出てしまい、それに慣れてしまうという最悪の組織風土になってしまう。

間違いなく、構造的なもの。

おそらく誰がやっても、こうなる。 ヒトの問題でなく、仕組みの問題。
結局、牽制機能が不足しているの一言に尽きると思うのです。 ユルく仕事をしても、誰からも文句は言われない、言われたしても、少しだけ我慢すれば大丈夫、そうであれば、誰だって、ユルユル、ダメダメになると思います。

牽制機能は、実は結構大変なんです。 探して、分析して、まとめなければならない。 しかも、データや情報は隠されてしまったりするので、本当に大変だったりします。 
だから、市民オンブズマンみたいな、手弁当でそれをやる「素晴らしい市民」もいますが、市民の多くにそれを期待するのは、結構酷だと思います。

結局、それが政治家(立法府)の役割なのです。
そのために、お金と分析用費用(政務調査費)が支給されているのです。

この政治家の、官僚に対する牽制機能が効いていないから、官僚は駄目なのです。
結局、官僚が駄目なのは、政治家が駄目だからという、結論になるわけです。

つまり、その官僚にコントロールされているバカ政治家、あるいは意識的に結託している悪代官政治家は、もっとダメダメですが、最後は、そういった政治家を当選させている、私がダメダメという、本当に悲しいオチもあったりします、笑

年金も、医療も、介護も、都市開発も、若くて元気だと、遠いことなので、何も知らないし、知ろうとしないからノーチェック。 教育だって、学校まかせ。
自分の仕事と、身近な幸せという、極々個人的な視野で生活をしていると、社会システムに対して、まったく関心なし。 だから、役人がダメダメであろうと、ちょっと不満でも、ノーチェック、ノーアクション。

「これでは、いかんなぁ」と思って、行動できるか? 我々に突きつけられていることは、たぶん、そういうことなんだと思います。 そして、私はその先頭を走ってみようかと。

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自民だって、民主だって、地方議員は建設公共事業大好き

【新幹線に1兆円を】 逢坂誠二の徒然日記 2008年12月17日

Jpg北海道選出の民主党衆議院議員、逢坂氏のメルマガです。 北海道の市長経験者で、まさに経済的に追い詰められている北海道の代表者として、活動されています。

実は、逢坂氏は、行政に見られる「会計報告」のズサンさを指摘して、もっと細かい仕訳項目、摘要記入を義務化しなければ、無駄のチェックのしようがないという主張をし続けています。 地味な指摘ですが、行政活動評価の根幹に触れる、本質的な指摘で、素晴らしいと思います。 

現状の大まかな会計勘定だけの「会計報告」では、結局、何にどれくらい使われているのか、大まかな部分しからわからず、「効率性」をチェックしようがないのが現実です。 したがって、現状の行政がやる事業は、「その事業をやるかやらないか」、「どれくらいの予算でやるかやらないか」を議論しているだけで、その事業遂行の「効率性」については、実質ノーチェック。 したがって、予算さえ取ってしまえば、あとは役人の「非効率」な運営となってしまうのですが、何がどう非効率なのか、現状の会計報告ではチェックのしようがないと、逢坂氏は指摘しているのです。 

この主張は専門的でわかりにくく、おそらく全く票にも繋がらないので、政策提言するためには、「正しいことは何か」「必要な運営ルールは何か」という信念が必要です。 彼には、その信念があるのか、たまたま気づいたので言っているだけなのか、よくわかりません。 感覚的には、その真ん中くらいの感じかな?

その素晴らしい逢坂氏でも、北海道選出なので、やっぱり北海道の視点で、「国の運営」を考えることになってしまうのだなぁと、つくづく感じたのが、今回の彼のメルマガです。

彼の主張は、
・自民党が北海道(長万部―札幌間)の新幹線着工を決議したとのことで、(地元のインフラ整備が進むので)いいことだ
・しかし、(新幹線の)規格がダウンしており、いかがなものか?
・フル規格だとしても1兆円。 定額給付金に2兆円使うくらいならば、地方の活性化のために、この1兆円の方が、全体として優先順位が高いのではないか
ということです。

その長万部―札幌間には、既に普通の特急が走っています。 そこに、どうして新幹線を通すのか? 確かに移動時間短縮となれば、ありがたい。 しかし、それに1兆円? これが優先順位の高い公共事業なのか? どう考えてもありえないでしょう。 もっと優先順位の高い公共事業があるでしょう。 
もちろん、そのためにはいろいろ知恵が必要ですし、議論も別れるでしょう。 結局、地元でとりあえずNOが出ない、安易な公共事業として、インフラ整備=新幹線建設になったのかなぁという感じです。 不景気北海道には、国の予算が大きい、大型公共事業がカンフル剤として有効なのは、明らかなので、仕方ないといえば仕方ない気もしますが、安易に賛成し過ぎているような。

「他にも、やるべき公共事業はあるけれど、目先苦しいので、全員の意見が割れない新幹線建設で、景気対策をやるしかない」と言えば、「仕方ないかなぁ」と思うけれど、安易に「良かった、良かった」と言われると、自民党の利権誘導の政治家と何が違うの?という感じです。

それくらい北海道が厳しいのはわかりますが、「民主党でも、やっぱり、そんなものか?」と少しがっかりくるようなメルマガでした。

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貧困にさらされた子供は、問答無用に社会は助けるべき

【貧困にさらされた子供の将来】週刊東洋経済 2008.10.25

Jpgちょっと古い号ですが、週刊東洋経済が「家族崩壊」というタイトルで、社会的問題を網羅的に特集しています。 社会を構成する基本ユニットの「家族」を取り巻く環境が、どんどんひどくなっているという指摘です。

特集では、「家族崩壊」をいくつかの切り口で指摘しています。
1.経済的に厳しい水準で、それが構造的になりつつある(ずっと、低所得ということ)
2.働く環境も、実は悪くなっている(低所得なのに、長時間労働)
3.経済的にきついから、子供を産まないという、構造的「少子化」
4.兄弟や親せきが減り、かつ親子の縁も弱くなり、親族間の助け合いがないまま、高齢者世帯が孤立化(社会で助け合うので、たいへんなコスト増)

それぞれに、事例と数的なバックアップ資料を挙げて、気合いの入った特集です。 雑誌なので、結論ありきで、事例を並べているという側面が強いですが、笑。
ただ、経済誌ゆえに、家族崩壊を経済的な側面、つまり所得や労働環境に置き過ぎていて、社会構造の変化に伴う個人や家族自体の変化、例えば核家族化、学校化、パーソナル化、社会流動性の高まり、幸福観の多様化といった面については、ノータッチです。
しかし、それでも、良い企画だと思います。 社会問題として特集をやるあたりは、編集部の良心を感じます。

国税庁の民間給与調査によると、年間300万以下の給与の人が1700万人います。 若い人ならば、やっていける水準ですが、世帯持ちでは、なかなか厳しい水準です。 この部分が「構造化」、つまり将来も変わらない状況になっているのでは?という指摘がスタートです。 いわゆる「ワーキングプア」、昇給がない、ボーナスがほとんどない給与構造です。

そして、その貧困が導く、具体的な問題として(経済的な不安からくる)少子化、貧困の悪循環、子供虐待、貧困家庭の子供の学力低下を取り上げています
そもそも「貧困とは何か」という、極めて難しい話は別エントリーを参照してもらうとして、貧困によって起こる「精神的なゆとりのなさ」、「学ぶ機会の減少」は、貧困の悪循環を引き起こすのに十分です。 『所得の低さ→余裕のなさ→尊厳を確保できない→前向きな行動ができない→現状に閉じこもる→所得の低いまま→尊厳は確保できない』という悪循環です。

貧困にさらされる子供を社会で助けないと、悪玉のバランスに傾いた大人が成長する可能性が高く(犯罪を起こす可能性が高まる)、それが結果的に「社会の管理化」を強化し、「不安でびくびく」して、「取り締まりや更生(刑務所)のコスト」がかかるという社会に突入してしまうのでは?と問題提起しています。

貧困の問題は本当に複雑です。
しかし、貧困にさらされた子供は社会で助ける必要があることは、ほぼ間違いないでしょう。 親との関係の中でどう助けるのか?という問題もありますが、少なくとも、親から切り離される子供は、社会で助ける体制を持つべきでしょう。 児童相談所の方が言うには、物理的に体制が整っていないとのこと。 票にはなりませんが、政治家の方、行政の偉い方には、「どういう社会であるべきか」という大局にたって、この問題に対して向き合う必要があると思います。

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働くことを通して得られる幸せ

【知的障害者が7割の工場】 日本理化学工業 大山会長 東京TV「カンブリア宮殿」 081103

Photo チョークを作っている町工場ですが、なんと社員の7割が知的障害者だそうです。 二つの工場があり、川崎の工場がTVで紹介されていましたが、パッと見、30名くらいの人員で、だとすると20名以上の知的障害者が活躍しているという、素晴らしい工場です。

通常に、朝から夕方まで働いていて、給与が12万円(だったかな?)くらいということで、知的障害者は福祉作業所で働くことが多いですが、そこでの給与は月数千円程度。 貴重な雇用機会を作り出しています。

その会社の大山会長いわく、
・知的障害者の方は、決まった仕事を黙々と、集中してやり、精度は高く、生産性も健常者にそれほど劣らない
・会社側が、作業を間違えないような工夫を随所に行えば、しっかりやってくれる
と、断言しています。

ただし、知的障害者の採用に対しては、最初及び腰だったと言います。 しかし、ご縁があって2週間の体験雇用をやってみたところ、黙々と働く姿勢に従業員一同が感心し、従業員側から、彼らの面倒を見るので雇ってあげて欲しいとの要請があり、踏ん切りがついたと言います。

そして、知的障害者の雇用を通して、大事なことを気付かされ、そして、それゆえに人生が豊かになったと大山会長は述べています。

ある日、大山会社が住職に何気ない質問をしたそうです。
「至れり尽くせりの福祉施設に行く方が幸せだと思うのに、どうして、満員電車でしんどい思いして、工場に来るのだろうか?」

その住職は、こう答えたそうです。

ヒトの究極の幸せは4つ。
1.愛されること
2.褒められること
3.ヒトの役に立つこと
4.ヒトに必要とされること

工場での仕事を通して、2から4を獲得している。 だから、「働く幸せ」を感じている。」

ヒトの幸せの本質を、的確に表現したものです。 知的障害者の皆さんは、誠実に仕事に向き合い、純粋に、その幸せを感じ取っているのかもしれません。

翻って、我々はどうでしょうか? 我々も当然同じ幸福観を持っているのですが、誠実に向き合わず、都合よく「褒められること」「ヒトに必要とされること」を求めているのかもしれません
楽をしてしまう、怠けてしまうという、誰もが持つ「悪玉」の影響を受けて、都合よく幸せを求めようとしているのかもしれません。 でも、幸せは都合よく獲得できません。

仲間と一緒に、仕事に誠実に向き合うと、自ずと「働く幸せ」を感じられるようになるということを、知的障害者の皆さんは教えてくれているのかもしれません。

政治的な出世競争があったり、仕事の種類によっての楽・大変があったり、嫌な上司がいたり、フェアな評価がされていなかったり、とんでもないお客さんの相手をする必要があったり、無茶な要求ばかりやってきたりと、確かに、誠実に向き合うには、ちょっと厳しい環境で、手加減して、調子よくやるのも、処世術なのかもしれません。 しかし、それで、働く幸せを感じるチャンスを逃しているかもしれません。

悪循環というか、閉塞しているというか。 そういったものは、リーダーがぶっ壊す必要があります。
誠実に向き合うことの素晴らしさを信じられるリーダーと出会えたら、幸せです。

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すべては「やる気」次第、でも「やる気」は普通起こらない

【すべてはやる気次第】 日経情報ストラテジー 2008年12月

0812 仕事の生産性、組織の活力の最大のドライバー(影響要素)は、「社員のやる気」であるという、身も蓋もないことを、大真面目に特集しています。 「当たり前でしょ」という内容ですが、それだけ「社員のやる気」がないという認識が広がっている裏返しの特集です。

特集では、「エンゲージメント」という難しい言葉を使って、やる気の定義をしています。

「組織に対して、強い愛着を持ち、仕事に熱意を持っている状態」
「会社が成功するために貢献したいと思う気持ち。そのために自発的・自律的に絶えず努力している状態」

要は「一生懸命にやる」スイッチが入ることだと思うのですが、どういう時にスイッチが入るのでしょうか?
特集では、3つの要素のうち、ひとつでも強い感覚を持つと、やる気のスイッチが入るとしています。

1.「貢献感」 会社の中で自分が役立っているという認識 → 自分が会社の中で認められているという認識=自分は有用であるという自尊心 → 尊厳確保&尊厳維持のために頑張るという好循環=「やる気のスイッチ」

2.「仲間意識」 好きな仲間が周りにいる → 仲間に認められたいという願望 → 仲間を助け、仲間に貢献したい → 仲間からの承認 → 仲間への貢献&仲間からの承認という好循環=「やる気スイッチ」

3.「仕事が面白い」 仕事の内容そのものが、自分の好奇心を刺激して、「もっと知りたい、もっとやりたい」状態 → 達成感、顧客からの評価で「もっと、もっと」=「やる気スイッチ」

1と2は結構かぶっていますが、内容的には、その通りだと思います。

カリスマ人材コンサルタント原田隆史氏の言うとおり、生活時間の半分以上を費やす仕事は、まさに「人生」。 この「人生」を通して、「自分」の尊厳を確保しようとするのは、普通の展開です。 尊厳の根っこは、まさに「承認」。 仕事ができると「承認」されるか、仲間から大切な存在として「承認」されるか、結局は、このどちらかのパターンで尊厳を確保、つまり「やる気のスイッチ」が入るわけです。

組織を設計するときには、この部分を意識する必要があります。
仕事ができるという「承認」を獲得できるのは、どうしても一部になってしまうので、全体的には、仲間からの「承認」が大事になってきます。

しかし、言うが易し、行うが難しの部分も多々あります。
ひとつは、「仲間」の感覚が生まれないと、「承認」もへったくりもないので、その前提は、組織の中で「仲間」の感覚を作る必要があること。 もうひとつは、傷をなめあう「仲良しクラブ」にならないように、「前向き」な姿勢をもった仲間を作る必要があること。

ちなみに、組織の流動性の少ない行政では、長時間にわたって、同じ空間を共有するので、必然的に「仲間」感覚は生まれるのですが、前向きな姿勢をリーダーが持たないと、単なる「(排他的な)仲良しクラブ」になりやすいです。 リーダー、つまり市長村長次第です、笑。

民間の場合は、組織流動性が高いので、物理的な空間・時間共有による「仲間」感覚は生まれません。そこで、仕掛ける必要があるのですが、キーワードは、「深く向き合う」「非日常の共有」で、日常のコミュニケーションを超えた、深い関係を作りだすことにあるようです。

特集では、「深く向き合う」事例として、「ざっくばらんに話す場を意識して作る」「激しいプロジェクトを通して関係を深める」が挙げられ、「非日常の共有」事例として、「激しい社内行事の実施」が挙げられています。 どれだけやっても、ゴールはないのですが、常に意識してやり続けることによって、だんだんと強くなっていくというイメージだと思います。

結局、人間関係、つまり関係の絆の太さ・濃さの話です。 人間関係の機微を理解している人こそが、組織における「やる気スイッチ」を入れることができるのです。
人間関係の機微をわかっていない人事コンサルタントが、心理学などのアプローチで「エンゲージメント」を語っても、ダメダメです、笑。

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50万円の車を選ぶか、2000万の車を選ぶか、それとも乗らないか

【ベンツは格好良いか?】 須田伸エッセイ  日経ビジネスオンライン 2008.11.25

ベンツの車としてのスタイルの話でなく、ベンツを乗るというライフスタイルは格好良いか?という話に関するエッセイです。

車としての機能以上の価値を越えて、「バカ高い」ベンツを所有するということの背景には、「それぐらいバカ高いものを買える=社会的に成功している=人間として優れている」という、三段論法があって、それがほとんどのヒトの暗黙の認識(吉本隆明的に言えば、共同幻想)なので、ベンツがバカ高くても売れるという時代がありましたし、今もその傾向は残っています。

しかし、その共通認識がジワジワっと、共通でなくなってきているのでは?という投げかけで始まるエッセイです。 その証拠に、ベンツのCMで、わざわざ「メルセデスとともに歩む人生という選択をしたのだ」というメッセージが流れていたと。 そんなこと、前は言わずもがなという内容ではなかったかと。

現状の経済は、そういった人間の「見栄」で成立しています。 つまり、食糧やエネルギーという必要不可欠な消費よりも、「見栄」に対する消費の方が圧倒的に大きいのが現実です。
「見栄」への飽くなき活動に対して、「煩悩」と切り捨てた仏教の教えも空しく、また「清貧」という対抗思想も圧倒的力不足で、日本では「見栄」を煽るべく、「格好良いヒトのライフスタイル、そして、そのスタイルに必須のアイテム、笑」という、直接、間接のメッセージがあふれています。

しかし、見栄は皆が共通認識で持っていないと成立しないところに難しさがあります。 「ベンツに乗るというのはどういうことか」という共通認識がなければ、見栄を張りようがありません。 須田氏が指摘している通り、その共通認識が共通でなくなってきているのは間違いないような気がします。 

社会的成功のアピールは、相変わらず見栄の根幹ですが、ベンツがそのシンボルかどうかは、だんだん怪しくなってきていると思います。 逆に、極端ですが、常識からかけ離れた、バカ高いベンツを選択するというのは、社会的成功の「品」を落としてしまうという、認識もあるのかもしれません。

もちろん、市場調査をすれば、まだ圧倒的に、ベンツのイメージはポジティブでしょう。 しかし、ジワジワっと凋落傾向にあるのは、間違いないような気がしますし、それはベンツのブランディング活動が失敗しているというよりは、豊かの弊害に何となく気付いてきたヒトの、新しい感性の方向性のような気がします。

見栄というブラックホールのエネルギーは無限で、それがヒトを突き動かしてきて、全体として、経済的な成長が起こったということは紛れもない事実です。 
見栄を「格好良い、素敵、オシャレ、魅力的」というポジティブな価値に置き換え、経済的な成長を「人類の進歩」と定義してきたのが、近代です。
そういった大きな歴史の流れの、小さな変化が、ベンツのCMなのでしょうか?

それとも、単にベンツが、見栄のアイテムとして落ちぶれただけで、レクサス風プリウスがそれに代わるという、単なる見栄アイテムの変遷に過ぎないのでしょうか?

小さな変化が起きているような気がしますが、大きな変化は、大きなきっかけがなければ起こらないでしょう。 大きなきっかけは、温暖化による異常気象が原因の食糧危機なのか? 
さて、さて、どうなることか。

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幸せについて、中学生と向き合う本

【幸せに生きるために、社会がしっかり回るように】 宮台真司「14歳からの社会学」

社会学者、宮台先生による14歳向けの、自分と向き合うための本です。 彼の文章はいつも難解で、理解するのに本当に苦労するのですが、今回の本は、わかりやすく書かれています。 しかし、内容は難解というか、深いです。 たくさんの後悔(笑)をしてきた大人が読んで、「うーん、確かにそういうことだなぁ」と納得してしまう内容です。

7つの章に分かれて、自分のこと、社会のこと、性愛のこと、仕事のこと、学ぶこと、死のことなどの本質を宮台流に解説しています。 社会学という学問のセオリーに沿って、様々な価値観や思い込みが、ある前提があって成立しており、その前提は時代とともに変化するので、どんな価値観も相対的に過ぎないと説明しています。 その相対的なものに振り回されるのではなく、その前提を見通して、自分が納得する価値観を見出そうと言っている気がします。年長者特有の、圧倒的な経験量に基づく、上から目線ではありません。

一番最初の章で、人間の行動メカニズムの本質を説明しています。 「(試行錯誤的な)行動する」→「(その行動に対して)承認を得る」→「(自分は意味ある存在だという)尊厳を得る」→「行動する」という循環があると言います。

この循環を通して、行動の源泉となる「尊厳」を厚くしていき、(失敗や期待外れに対して)タフな人間になって、どこでも自由に振舞えることが、まずは大事と言います。

特に、失敗や期待はずれに遭遇すると、次の行動に対して臆病になりがちですが、「失敗しても大丈夫」「失敗なんて関係ない」という承認をもらえると、「大丈夫なんだ。次は頑張ろう」という尊厳を獲得して、次の意欲が引き出されると言います。

承認と尊厳はある日突然得るというよりは、小さいものの積み重ねに近いもので、子供のうちから、親や周りの人間から承認をもらって、尊厳を獲得していくということが、最初の段階では大事であると言います。
そして、一人で社会に出て行く段階で、また同じように、周りの人間から社会的な承認をもらって、尊厳を獲得していくということが大事だと言います。

昔は、承認の糧(ネタ)が単純だったし、全員が似たようなイメージを持っていました。(社会的な)承認として、典型的なものは「よい学校、よい会社、(モノの)豊かな生活」で、そのアイテムとして、東大、三菱商事、クラウン(車)があった。 全員が似たようなイメージを持っていたので、よい学校、よい会社、豊かな生活(を象徴するモノ)があれば、承認→尊厳というメカニズムがありました。

しかし、豊かな生活が当たり前になって、よい学校、よい会社も「幸せには繋がらないかもしれない」と認識されてくると、次は「格好いい生活、格好いい自分」という自己イメージが承認の糧になってきたのですが、何が「格好いい」のか、イメージがバラバラで、なかなか他者からの承認が得にくいとうい事態になってきたというのが、今の時代だそうです。

「承認→尊厳」を獲得するために、必死になっているというのが、今の若いヒト。(大人もそうだと思いますが、笑) そのような自分と、そうなっている自分の環境をまず自覚して、その上で自分の幸せを考えてみて、そしてどう社会に関与するか、模索してみようというのが、14歳の社会学の中身のようです。
「社会とは、こういうものだ」、「人生とはこういうものだ」、「人間とはこういうものだ」と、歴史上の様々な出来事を都合よく引用して、自分の価値観を主張する「社会論、人生論」とは、完全に一線を隔てた、良書なのか、難書なのか。

大人のダメな部分を「頻繁に」見ている14歳の中学生には、「大人になる」ということはどう移るのか? 「皆と仲良く」「仕事は一生懸命」「ルールは守れ」「愛は永遠」という「キレイごと」を、彼らはどう思っているのか?

まだ自我が安定していないのに、不安定な現実が、彼らを襲います。 そんな彼らに、不安定な現実の「メカニズム」を、優しく教えようとしているのが、この本です。 優しく書いていますが、やっぱり難しいです。 
14歳がひとりで読むこともありですが、大人と一緒に授業で大真面目に語り合うというのも効果的かもしれません。 道徳の教科書という感じでしょうか。

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認知症 社会の新しい課題

大きな病気、障害、経済的困窮は、誰にでも「起こりうる」大きな問題です。 本人、あるいは家族がそうなってしまったら、大きな金銭的、物理的負担が生じます。 それで、生活が追い詰められるのは不幸であるということで、万が一そうなっても、社会全体で支えていきましょうというのが、近代国家の意義です。 

・病気になっても経済的に破綻しないようにする → 医療保険制度
・障害になっても、できる限り普通に生活ができるようにする → 障害者への各種支援
・加齢に伴う障害をもった高齢者の生活を面倒見る → 介護保険制度
・何らかの理由で経済的に困窮する → 生活保護

こういった問題に該当するヒトの割合が増えてくると、皆の負担も増えていきます。 ここに、現在の日本の社会運営の難しさがあります。 

ただ、おそらくその負担は納得してもらえるはずです。 しかし、行政を中心にした運営側が誠実にやっているという前提つきです。 現状は「誠実にやっていないのでは?」という疑心状態です。 市民側の行政に対する疑心、行政側のその無自覚という、大きな溝があるのが現状で、誰かがその橋渡しをする必要があります。 政治家しかおりません。

さて、上記のような、「社会で支えなくてはならないヒト」のうち、もっとも増加するのが高齢者(医療、介護)で、激増に近い状態です。 特に増加するのが、75歳以上で、2005年には1000万人強だったのが、20年後には2000万人を越えます

高齢者は一般にリタイアする65歳以上とされていますが、まだ健康そのものの方が多く、社会で支える必要が出てくるのは、75歳以上高齢者です。
医療費も65歳以下は22万円前後ですが、75歳以上はひとりあたり80万円以上です。
また、介護の方も、74歳までは要介護で3.3%ですが、75歳以上になると21.4%です。

この激増の一方で、働く人口は減っていく。(20歳以上64歳以下人口が2005年7800万人、2025年で6600万人) この見通しに対して、これから10年間どういう手を打つのかが、まさに政治の仕事になります。

そして、この75歳以上高齢者の激増で、大きな社会問題になるのが、認知症高齢者の激増と、単身世帯高齢者の激増です。 今回は、認知症を取り上げます。

認知症は、脳の機能障害が起こり、知能が低下し、通常の社会生活が困難になる症状です。 重い症状では、通常のコミュニケーションが成立せず、また、徘徊や妄想、異常行動もあり、支える家族には極めて負担の大きいものです。(身内だけに何とかしたいと思うが、何もできないし、コミュニケーションが成立しないという絶望感で、精神的に疲労する)

若年性はドラマでも取り上げられますが、人数としては小さく(ゆえに、社会的なサポートを得にくいという問題がありますが)、多いのは高齢者です。特に75歳以上で症状を持つ割合が増えます。 
「認知症」であるという症状の確定が難しく、正確な統計がないのですが、200万人弱で、65歳以上人口の8%くらい(2500万人×8%=200万)と言われています。

しかし、年齢ごとに発症割合はあがり、80代前半で15%、80代後半で27%と言われ、高齢の高齢者が増える今後は、認知症患者は激増します。 
75歳以上人口が2000万人を超える2025年には、350万から400万人くらいになるかもしれません。 (いろいろな推計データがあります)

確かに、この人数には軽度、重度がありますが、「認知症」と診断されれば、通常の社会生活はかなり難しくなってきます。 この難しいヒトが、300万人以上、すごい人数です。 二人を一人を支えても、ヘルパーで150万人必要。 ヘルパーの給与が年間250万円だとしても、年間3.75兆円です。 (実は、大きな公共事業。 あとは意識的に高い単価を設定すれば参入業者が増え、建設関連に変わる大きな事業になります。 ただし、規模は、高齢者の人数に比例するので、地方への経済効果は小さくなってしまいます。 ダムや無駄な道路を作るほどの経済インパクトはありません

認知症の方を支えることは、かなり心理的に負担が重いものです。
認知症の方とは、普段のコミュニケーションが成立しません。 知能障害があるからです。 また、認知症の方には、通常の「相手を考える」という意識が低くなり、「自分の感情」のまま活動するようになり、まるで大きな子供です。 身内のヒトは、昔の状態を知っているだけに、「その落差」に落胆するし、相手に振り回されるだけで、感謝のかけらもない、大きな子供のお世話に疲弊するのです。

だから、社会で対応しようとしたのですが、人数があまりに増えていくると、社会的にも経済負担が大きくなってきました。 しかし、それでも対応すべきなのです。
政治的な大胆な投資決定と、現場におけるイノベーションが明らかに必要です。

それを、貪欲にする人が少ないかもしれません。 特に、政治家に。

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