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2009年1月の6件の記事

今の仕事を一生懸命することが、最大の成長機会

【長期的には、結局「志の高さ」 伊丹敬之】 週刊東洋経済 2009.1.17

Photo 一橋の伊丹先生へのインタビューです。 特集が「社会人の勉強法」なのですが、伊丹先生は、「そのテーマ設定自体がおかしいだろ」とバッサリです。 返す刀で、「基本的に取材された内容をひっくり返すヒトはいないから、テーマ設定自体が世の中の流れになってしまう」ので、編集者は、もっと慎重にテーマ設定をしなさいと。 いや、まさにその通り。

そして、伊丹先生にとって、社会人の最大の勉強は、仕事とは別に勉強することでなく、「ひたすら、今の仕事を一生懸命やること」、これしかないと言い切ります
私が思うに、徹底的にやり切って、成功する、失敗するという経験が、成長の圧倒的なリソースであることは間違いなく、どんなに勉強しても、到底追いつけないということだと思います。 だから、勉強法を考える前に、今の仕事を徹底的にやり切れということなんだと思います。 その通りです。 気が引き締まります。

そして、少し話が横にそれますが、名経営者の条件は「志の高さ」だと言い切ります。 
人間の成長、つまり組織・会社の成長は、無駄と有用、効率と非効率の試行錯誤を通して生まれるもので、長期的な成長には、ある程度、回り道が必要であると。 その必要不可欠な回り道を、敢えて通らせるという判断は、「志の高さ」からしか生まれてこないと言います

特に、これだけ短期的な利益、財務諸表の効率性を問われるような時代だと、その長期的な視点を持った経営は本当にやり辛い。 それでも、敢えて「やる」というのは、もう「志の高さ」があるかどうかに尽きると言います。 

そういった本質的な話を無視して、会社に余裕があるのに、短期的な利益のために、「リストラで業績回復」を煽るアナリスト、経済記者は、本当に酷い人達であると。 誰の回しものなのだと。

伊丹先生、切り口が鋭く、素晴らしいです。
私も、今、ここにある仕事に、120%向き合うようにしないと。 反省です。

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自分を突き動かす「心」と向き合えること、それを叫べること

【心から叫べ 長渕剛】 課外授業 NHK 09.1.4

281_nagabuchi 魂を歌い上げる音楽家、長渕剛が地元鹿児島の母校に帰って、4日間の特別授業を行う番組です。彼が受け持つのは、まもなく卒業を迎える高校3年生のあるクラス。 最初から直球勝負で、「分かり合う」「仲間」というコンセプトで、グイグイ授業を進めます。

この特別授業の課題は、「叫び」というテーマで、クラス全員と長渕で、オリジナルの曲を作ること。 そのために、自分たちの「魂の叫び」と向き合うのが、授業の前半です。

就職先の東京の話がたまたま出たときに、話は「秋葉原殺傷事件」へ。 長渕が、生徒にその事件について意見を聞くと、「その場にいなくて良かった」「死ななくて良かった」という、被害者にも、加害者からも離れた、極々個人的な感想の連続で、長渕はその感受性の弱さに、怒りを覚えます。

そして、大人になって失うものは「感じること」だ、これは絶対に失ってはだめだと、訴えかけます。 もし現場にいたら、自分はどう思うのだろう、何をすべきなのだろう、何を感じるのだろうと、もっとハートで感じるものに敏感であれと訴えかけます。

さらに、自分自身を守るために、大人になるとどんどん観念的になり、それはある意味、屁理屈という鎧を身につけるようなもので、ハートで感じるということを、どんどん奥においやり、ヒトとしての、本質的なエネルギーを自分でつぶしてしまっていると説きます
だから、ハート、つまり自分の魂の叫びに常に敏感であるようにあれ、魂の叫びを大切にせよと、ロック魂、炸裂です。

そして、生徒一人一人が自分の叫びをもとに作詞を行い、30以上の詩を読み込んで、最後は長渕が作詞作曲します。 そして、長渕が生徒の前で歌い上げます。
その詩、曲、長渕のエネルギーに、クラス全員の感情が揺さぶられます。 涙があふれています。

文字にしてしまうと、何ともないのですが、番組はそのシーンを上手に見せてくれます。 画面を通してですが、その空気が伝わってくるようで、こちらも涙目です。

ヒトにとって、感情は最大のエネルギーです。 しかし、その感情は極めて個人的なことで、他人とはなかなか共有しにくく、そもそもその表現が難しかったりします。 それに、そもそも、大人の世界では、感情を抑えて社会的活動をすることが求められたりもするので、感情、つまり魂の叫びと向き合って、それを伝える、そして相手の叫びを聞くということ自体の経験が少ないのが普通です。

自分の感情と向き合わないことが、実は社会適合だったりもします。

でも、長渕は、それではダメだと言います。 「心から叫べ」と言います。 自分の魂と向き合わずして、他人の魂の叫びはわからないと。 他人の魂の叫びを感じられるとき、そこに絆が生まれ、仲間となり、そこで自分が生かされるのだと、最後は、堂々の長渕教の教義です。

リーダーは、チームの絆を築くことが仕事であるとするならば、リーダーは、自分の魂を叫び、そして仲間の叫びを感じることが必要です。 

自分の魂の叫びに近いものを、これから書き続けていきます。

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省庁会議はすべてリアルタイム動画配信すべし!

【とにかく何でも公開せよ 高橋洋一上杉隆対談】 週刊プレイボーイ 09.1.19

Jpg埋蔵金発掘で有名な、元財務官僚高橋氏は、なんと週刊プレイボーイ誌で連載を抱えております。身内の財務省をバサバサ批判したら、窓際に左遷、去年大学教授に転職。 転職後も、官僚の弊害を追及しまくっています。

その高橋氏は、これまた辛口ジャーナリスト上杉隆氏とつるんで、「第四の権力、ジャーナリズム」をばっさり切り落としています。

まずは、上杉氏。役所発表の内容を、「ほぼそのまま」垂れ流すことが堂々と行われているジャーナリズムを、権力に寄り添う「発表ジャーナリズム」とコケ落としています
その発表ジャーナリズムが成立する前提は、「記者クラブ制度」。 役所の情報アクセス権限を限定することで、情報ギャップをネタに、商売しているあたりが、もう悲しくらいダメダメであると。

高橋氏も、役所は、自分たちに都合のよい情報しか発表しないから、意識しようが、しまいが、結果的にジャーナリズムは役所の広報機関になり下がっていると厳しい指摘です。 同様の構造が、審議会にもあると言っています。

この腐ったジャーナリズムを再生するには、
・記者クラブを役所の中におかず、外に置く
・省庁内の会見は誰でも参加可能
・インターネットで、会見や審議会をリアルタイム配信
と高橋氏が提案していますが、

リアルタイム配信に反対してるのは、「実は記者」という、情けない現実があると上杉氏。

ジャーナリズムも寡占状態なので、実質的な「談合」体制ができてしまっているようです。
しかし、ジャーナリズムというか、テレビジャーナリズムが世論に大きな影響を与えているのは事実。

・どの内容を取り上げるのか
・それを、どのようなトーンで伝えるのか
・どれくらいの頻度で放送するのか

こういったことが、政策実現に大きな影響を与えるという現実がある以上、やはりテレビを含めたジャーナリズムとは、仲良くやることが、政策実現の必須テクニックです。
もちろん、それをすることによって失うものがいっぱいあると思うし、単なる売名行為になり下がる危険もいっぱいあります。 そのバランスをどこまで取れるか、これが結局、政治家、役人の「プロフェッショナリズム」なのかもしれません。

プロは誰か?

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テレビで社会問題を認識する「怖さ」

【救済は遠く 薬害肝炎 終わらない闘い】 日本テレビ NTVドキュメント 08.12.21

Jpg昨年の今頃、血液製剤によるC型肝炎感染被害者を救済する法律が、裁判での判決を超えて、政治的な判断で可決されました。 被害者の代表者がチャーミングなルックスで、語りかけも誠実と、「真面目な弱者が政府にいじめられている」という、わかりやすい構図もあって、マスコミはかなりの量の報道をしました。

普段ほとんどテレビを見ない私でも、薬害肝炎の報道は見ていて、
・会社と国は、血液製剤による感染の可能性および事実を認識しながら、隠蔽し、
・そのため、被害者が拡大した
・にも関わらず、今だに、国と製薬会社はその責任を取ろうとしない
くらいの認識で、テレビを見ていました。

そして、たまたま見たのが、日本テレビの年末のドキュメンタリー。
・感染被害者と国は和解し、救済措置が決定されたが、
・対象者は、血液製剤の投与事実が証明される(過去のカルテがある)ヒトだけ
・投与事実が証明できないヒトが山のようにいて、苦しんでいる人がいる
といった内容でした。

過去の事実認定が難しい場合、申告ベースしかありません。 しかし、その場合、どれくらいの申告者が出てくるのか想像もつかない場合が今回ならば、役所としては、そういう厳しいリクエストを、被害者の気持ちを無視して、やってしまうんだよなぁと感想を持ちました。

そこで、この薬害肝炎をネットで調べてみると、いやいや、とんでもなく複雑な内容に驚きました。テレビで見たものは、本当に、事実のわずかな部分に過ぎないということを痛感しました。

調べれば調べるほど混乱します。 どの辺が複雑かというと、
・薬害の定義、および対象者の定義
ということになります。

今回の裁判および政府による法律も、実は、
・後天性疾患について「フィブリノゲン」と「第9因子製剤」に起因するC型肝炎のみが、薬害と定義され
・薬害による肝炎感染を証明できるヒト(が、救済対象者とする
ということになっています。

となると、実は、
・先天性疾患で該当製剤が投与された人、例えば血友病の患者さんは、C型肝炎になっても対象外
・カルテがなく、投与が証明できない場合も対象外
ということで、テレビはこの2番目の問題を指摘していたものでした。

話を広げてしまうと、薬害自体の定義、つまり副作用とどう違うのかという、本質的な問題もあって、少々かじった程度では、混乱してしまうくらい複雑です。
いずれにせよ、テレビを通して認識した内容は、非常に小さく、単純なものに過ぎないということです。

テレビを通した認識の危うさを痛感しました。 しかし、テレビという何千万のヒトが視聴するメディアのパワーも痛感します。 これだけテレビが取り上げなければ、市民は薬害C型肝炎をほとんど認知せず、政府の落ち度を非難しなかったでしょう。 つまり、テレビで巻き起こった民意がなければ、おそらく政府による救済立法はなく、ずるずると裁判で争っていたような気がします。

社会問題を解決するには、テレビというメディアを通して「民意を盛り上げる」、つまり問題を認知し、おおまかに内容を理解するということが必須です。 たくさんの人が問題を認識せずに、問題は解決できません。 
しかし、テレビというメディアを通した認識は、結構「浅い理解」だったり、時に「偏った理解」だったりします。 それが、「テレビ政治」の問題だと言われています。

今回の薬害肝炎について、たまたま調べてみたら、自分自身もこのテレビの弊害に陥っていたことを痛感しました。 

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議会と役所の談合が終わる時

前回のエントリーで、議会と役所の談合を書きました。 その中で、議会(議員)の質問がお粗末とも書きました。 どうお粗末かというと、
・質問が非常に微細なもの (議会でわざわざ質問すべき内容か?)
・質問の内容が大きすぎて、答えようがないもの。 答えられても、抽象的に答えざるを得ず、結論が出ない
・そもそも、質問でなく、単なる演説 (実は結構ある、笑)
こんな感じです。

どういう問題意識を持っていて、何を明らかにしたいのか、何を主張したいのかということを、端的に質問してもらいたいものです。 基本的に、質問の内容、切り口で、そのヒトの能力、視点がわかります。 へぼい質問をしたら、会社では「できない奴」となりますが、議会では、へぼい質問が当たり前のようです。

ただ、そもそも論もあります。 時間が限られていて、途中で終わってしまうという構造的な枠組みの問題があります。 どんなに良い質問をしていても、時間で議論が終了します。 民間で例えれば、営業会議が行われていますが、時間が限られていて、結論が出ようが、出まいが、時間がきたら終了。 やるとしても、数カ月以降の会議。 普通の会社であれば、市場や競合の変化に対応できず、倒産していきます、笑。 

何らかの結論が出るまで、永遠にやるし、何を調べるならば「いつまで」という締切が設定されるということが原則なのですが、そういった原則がまったく当てはまらないのが議会です。 だから、議会では何も決まらないというか、そもそも進化が起こらない。

結局、(行政サービスを行うことが義務の)役所側が、役所の既得権を守る範囲で、制度設計・予算計画を組み、近視眼的な議会(議員)のお願いを飲み込みつつ、毎年毎年、行政運営をやっているというのが現実です。 議会(議員)は、お願いを何とかしてもらうので、役所の運営にOK出しているだけです。

この構造の中で、議員は「自治体全体の行政サービスを考慮した問題意識」を持たないし、「議論も真剣にしないし」、だから「実質的には何も決めない」ということになり、だから、「議会不要論」が出てくるのです。 ただし、その議員を温存させているのは、我々市民でもあります。 どんな活動をしようがお構いなく、身近な議員に投票し、あるいは投票に行かない我々が、そのような議員を温存させているのです。

そのようなぬるま湯議会を改革しようとするのが、議会改革です。 しかし、組織内部の人間は、組織内部を改革できないという原則がある通り、現状の議会に、自分たちの改革は絶対に不可能です。 議会と役所の談合構造は永遠に続きます。

これを終わらせるには、どうすれば良いのか? 我々市民が議会を律するしかありませんが、我々だって普通に仕事をしているので、日々チェックするわけにもいきません。 材料、情報が足りない中で、議会を律するには、相当の努力が必要です。 普通は、その材料、情報を提供するのが、マスコミだったりするのですが、自治体という、小さい市場では、ジャーナリズムが商売として成立しにくいようです。 

どうすれば良いのか? 実は、ノーアイデアです。 ぶっちゃけ、議会改革は無理だと思っています。

でも、地方自治は二元代表制ですから、議会がダメでも、役所がしっかり機能すれば、何とかなります。 役所が市民からしっかり牽制を受けて、自ら律していけばいいのです。 そのために、役所自らが、そのための材料、情報を提供していけば良いのです。 すべての情報が、わかりやすく公開されれば、さすがに市民も、役所に対して意見をいってくると思います。 変な運営をしていれば、「なんだそれ?」と突っ込みが入るようになると思います。

今までは、役所と議会の談合体制ですから、役所も自らの都合に合わせて、情報公開を最低限にしてきたし、役所の概念で情報を提供してきました。 市民が知るための、材料、情報があるようで、実は全くない状態。 例えば、役所の概念、言葉使いは独特ですから、わかりやすく再加工する必要があります。 特に、予算決算情報なんて、誰もわからない言葉ばかり、笑。

繰り返しますが、役所が変われば、談合は終わり、一部の当事者の既得権をベースにした調整型意志決定から、より多くの市民の意見と意見がぶつかる、(面倒だけど)本来の民主主義という、意志決定体制が生まれます。

えっ?、役所だって、役所自らが、自分の改革はできないのでは? その通りです。 

しかし、問題意識を持った市長が、組織の外からやってきて、市民のサポート(支持率)を背景にやれば、内部改革はできるはずです。 市長は執行部門である役所の全権限を持っています。 (もちろん、議会の承認が必要な内容がたくさんありますが、承認なしでできる内容もきわめて多いし、実際の執行段階では、承認なしでできるものがほとんどです)

役所と議会の談合が終わるのは、構造的な談合体制に対する問題意識をもった市長が誕生した時です。 それ以外に手段はありません。

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議会と役所の談合はいつ終わるのか?

【議会と市長の談合はいつまで続くか】 読売新聞 09.1.5

読売の夕刊で、「議会不要論」を考える特集が組まれました。 大学生の区議会見学の感想を紹介しています。

「議員の質問も、役所側の回答も、台本通りで、いったい何をやっているの?、意味あるの?」

地方議会では、これが普通です。 前もって質問が伝えられ、役所がその準備をして、「出来レース」の質問と回答。 まるで談合です。 前もって、結論を決めておく。

本来ならば、喧々諤々議論すべきなのに、前もって決まっていて、あとはセレモニーというのは、本当に問題です。 議会(議員)と役所の両方が楽しようと、完全な談合です。 公正取引委員会は、市民ですが、市民は気づいていないというか、無関心。 だから、公共事業の談合はどんどん減っていますが、議会と役所の談合は脈々と続いています。

実は、これ以上に、どうしようもない問題があります。 議会(議員)側の質問が、どうしようもないくらいお粗末なものが多いということです。 行政テーマに関する問題意識がぼんやりしているので、質問が曖昧なことが多いし、そもそも問題意識さえ、なかったりします。

自分の仕事は、「支持者の陳情、お願いを、合法的に、(業務を行う)役所につなぎ、便宜をはかること」だと思っているので、自分の自治体全体の問題意識という発想なんてありません。  支持者も、全体より、個人が当事者になる個別事項の方が大事ですし、そこで頑張ってくれる議員を、道義的にも無視できません。 構造的です。

役所と議会の談合は、構造的です。 これでは、当事者に有利な政策しか決まりません。 つまり、当事者の既得権を守る政策になります。 役所や議員に厳しい内容は、一生出てこないでしょう。 本来、「これはおかしい」と思うのが普通で、選挙を通して、その談合が壊れるのですが、「おかしい」と思いつつも、直接の被害が見えず、不満のレベルが高くないので、身近な議員を支持したり、無投票になったりします。 議会と行政の談合が温存されてきた歴史です。

しかし、時代は変わりつつあります。 不満レベルが高まってきました。 身近な議員よりも、「誠実に公共の利益をおっかける議員」を選ぶヒトが増え、無投票も減ってくる、、、そう信じたいですが、兆しは見えるものの、まだまだ大きな流れにはなっていません。

「誠実に公共の利益をおっかける議員」が見当たらないだけかもしれません。 その受け皿になる議員、市長がでてきた時に、大きな流れがいよいよ動き出すような気がします。

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