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2009年2月の12件の記事

政治家の評価はイメージ、缶コーヒーと一緒

【やっていることはメチャメチャだけど 石原慎太郎知事】 日刊ゲンダイネット 09.2.12

Photo タブロイド誌は、権力者を叩くのが役割なので、細かいことでも「噛み付く」ことが原則です。今回のニュースも、本来はもう少し別の視点で見ないと、偏った事実認識になりそうなので、そのまま取り上げたくはないのですが、話のきっかけとして利用させてもらいます。

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_ishihara_shintaro__200902163/story/15gendainet02040171/

記事によると、9000億円のハコモノ改修計画が進んでいるという。 オリンピックのための準備金も、この4年間で4000億円だという。 お金持ちの東京都で、やりたい放題というのが、記事の主旨です。

石原都政は、実はびっくりするくらい、有名な割には、大きなことは何もやっていません。 やったことは、新東京銀行くらいで、これは大失敗。 1000億円出資して、さらに追加出資400億。 おそらく、今後さらに追加費用が必要と思われるくらい、事業として大コケしています。
(治安活動の徹底や、ディーゼル規制や羽田利用拡大に見られる国とのガチンコ勝負など、確かに、他の知事ではありえないであろう実績もありますが、教育や福祉医療系は、目新しいものありません)
オリンピック誘致も、どうなのでしょうか。

でも、人気は抜群です。 
もともとアンチ保守という作家としての作品傾向、国に対して「堂々と文句を言う」強さ、(ワンマンに近いくらいの)リーダーシップを感じさせる話し方など、現状の政治家や役人と戦うイメージがあるところが、その人気の背景だと思います。

テレビ政治は、何度も言うように、「イメージ」です。 今、必要なイメージは、既得権に凝り固まって、何もできない役人や政治家と戦うイメージです。 「マニフェスト」をもとにした、具体的な政策や、政策を進めるための周到な計画は、ほとんど注目されません。

このイメージをどう作り出すかが、選挙マーケティングの大きな部分を占めると思います。 マニフェストも、そのイメージ作りのひとつの道具に過ぎません。

しかし、「イメージ」で選挙に通っても、やはり「行動計画」がなければ、実際に政治は変わりません。「行動計画」のためには、自分の「理想社会イメージ」と、詳細な「現状分析」が必要で、経験から熟成させた洞察力と哲学観、それに、相応の勉強と、大変な準備が必要です。

現状の政治家は、この「行動計画」は横に置いて、結局「イメージ」作りの戦い合いになってしまっています。 「社会を変える」ことよりも、「選挙に通る」ことが主目的になってしまっているからです。 
もちろん、選挙に通らなければ、社会を変える入口に立てないのですが、入口に立っただけで満足している政治家がほとんどです。

勉強家の菅直人でさえ、自分の活動の7割以上は「選挙活動」と言っていましたが、勉強不足について「選挙活動」を言い訳にしては本末転倒です。 「社会を変える」ための政治家になるために、「選挙活動」をしているのです。

政治学者やマスコミは、政治家の「理想とする社会観」や知識量について、もっと取材をして分析をしてもらいたいです。 政治学者は、制度分析でお茶を濁しますが、それは若いうちに終わりにして、生々しい政治の世界を分析をしてもらいたいものです。 それこそが、社会に役立つ政治学だと思います。

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テレビ政治では、正しいことでも、注目されないと意味なし

【政治を官僚から国民の手に 渡辺喜美】 日経ビジネス 09.2.9

Photo 離党した渡辺議員に対するインタビューですが、盛り上がらない離党劇を、「劇団ひとり」と揶揄しています。 少し可哀想。

さて、現在の世論の本質は、「ダメな役人」と、「ダメな役人を正せない政治家」あるいは「ダメな役人とつるむ政治家」ということだと思います

年金の問題で、決定的になったと思います。 もともと不信感はあったのですが、年金の問題で一線を越えたと思います。
結局、政治家に求めるのは、役人と対峙して、この閉塞感を突破してくれる人、これに尽きると思います。
マニフェストなど、細かい部分はわからないけれど、象徴的な案件で、役人と対峙する政治家に期待するのだと思います。 (小泉さんの郵政は、役人との対峙の象徴的案件として位置付けた)

公務員改革制度は、まさに象徴的な案件で、麻生首相は失敗しました。 政令を通したところで、何をやってもダメです。
世論は「やっぱりダメか」と思ったに違いまりません。

そして、そのダメな麻生首相に、ケンカを売って、自民党を飛び出したのが、渡辺喜美衆議院議員で、まさに、世論が期待する政治家を演じたのですが、いまいち盛り上がらない。

どうしてなんだろう?

おそらく、実は渡辺喜美氏は、意外と認知されていないのではないでしょうか?
マスクパフォーマンスなどをやって、目立っているようですが、実はまだ認知も、「役人と対峙している」という理解も低いのかもしれません。
認知も理解も低いヒトが、自民党にケンカを売っても、あまり絵になりません。 絵にならなければ、テレビも取り上げません。
これが盛り上がらない理由だと思います。

テレビに出まくって、おもしろい話術をもっているなどの特徴、あるいは、自民党総裁選挙で圧倒的にアンチ自民という演出ができることなど、かなりインパクトがないと、政治家の認知度は上がらないという厳しい現実があるのだと思います。

渡辺氏の発言、動きは、「政治に興味を持っているヒト」には期待を抱かせるものの、普通のおじいさん、おばあさん、女性にとっては、まだ「よくわからない」ということなんだと思います。

そういう意味では、時期尚早かなという印象です。 もっと、自民党内でどんぱちやって、認知と理解を上げてから、伝家の宝刀である「離党」をすれば良かったと思います。

テレビ政治では、テレビに映って、そこで「どのような印象」を持たれたかがすべて。 マニフェストではありません。
渡辺氏は、映る量が少なく、印象・理解も低いままの離党劇だったと思います。
少しもったいない。 でも、頑張ってください。 応援しています。

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行政改革の目玉、「事業仕分け」と「事業別会計」

【行政予算のムダのあぶり出し方 大塚耕平】 日経ビジネス 09.1.5

Photo 民主党の議員は、ご縁があって、いきなり国会議員になっている方が結構いらっしゃいます。 自民党のように、今までの延長線上で議員になるヒトが少ないので、今までの政治家とは違うタイプがポーンと登場したりします。 大塚議員のその一人だと思います。 

小沢代表は、そのポーンと登場する議員の、地元との繋がりの弱さを嘆きますが、地元の繋がりがバリバリのまま生まれた議員は、既得権者に囲まれた議員なので、ポーンと登場した議員の方がいいです。

大塚議員は、日銀出身ということもあって、金融への造詣が深いですが、今回のエッセイの内容は、行革というか、行政のコストカットです。 (もともと、彼の主張は、行革です)

行政のコストカットをやろうとすると、様々な批判が出てきます。 実際にメリットを享受してきた人たちは、死活問題なので、すべてを動員して反対します。 また、その外野のヒトたちも、「その分野を切り捨てるのか?」という突っ込みが出たりします。

しかし、大塚氏は、例えば「教育予算」を削ることは「教育の優先順位を下げること」に繋がらないといいます。 実は、教育予算でも、中身をよく見れば、無駄だらけで、「教育予算を削る」という大きな枠で語るのではなく、「教育予算の、この事業を削る」という事業単位で語ることが必要と主張します

時間の短いTV番組では、どうしても、高齢者か、子供かという二項対立の財政議論になってしまうのですが、実は、高齢者政策でも、本当にそれは必要な高齢者事業なのか、あるいは、その高齢者事業のための方法は効率的なのかという視点で語らなければ、財源論は進まないと言います

実は現予算の2割くらいは、事業として不適切で、結果的にコストカットできるのではないかと述べています。 このコストカット分で、十分財源論は確保可能と言います。

この一つ一つの事業単位で、ムダを見つけて、コストカットしていくというやり方には途方もない努力が必要ですが、やはり、これが財政健全化の唯一の方法だと思います。

その方法論として、東京財団がやっている「事業仕分け」。 (公共)事業の意図、方法、予算明細、達成の程度などを、事業単位で検討して、その公共事業の存在意義、方法の是非、効率性を議論します。本当に面倒な方法ですが、納得感をもって、無駄な事業がゴロゴロ出てきます。 

また、方法論というより、事業分析のために必須な会計制度導入も重要です。
現在の行政予算は、最初の段階で大まかな見積もりで予算を作り、その執行後の会計報告では、組織単位で、おおまかな項目に沿って、決算報告すれば良いことになっています。 この会計報告は、その内容をチェックしようと思うと、大まか過ぎて使い物になりません。

企業の会計の勘定項目程度のレベルで、具体的に何にどれくらい使っているのかは、全く知ることはできません。 全体観をつかむのには、この程度のレベル感でOKですが、経費削減のためには、具体的な使途明細がわからないと、具体的に削減施策ができません。 (民間の会社では、ひとつひとつの経費明細を明らかにして、ひとつひとつつぶして、経費削減をやります)

現状の行政の会計制度では、この使途明細は出てきません。 つまり、(議会も含めて)誰もチェックしようがないのです。 組織単位で、かつ大まかな項目の会計報告では、事業単位で、コストカットをするという目的が果たせません。
どの事業に、どのようなお金がかかっているのか、誰も把握できないのが、現状の行政会計制度なのです。 これでは、大塚氏の言う、事業単位で、行政のムダを削るということができません。 事業単位で、収支報告が明らかにならないからです。

これを追っかけているのが、これも民主党の逢坂誠二衆議院議員です。

大塚氏、逢坂氏の活動は地味ですが、行革の根幹的な内容です。 地味だからPRが大事なのですが、お二人とも、どうも活動のペースが遅いです。 せめて、書籍くらい出せばいいのに、短いエッセイで、ちょろっと語るくらいです。 中途半端です。

忙しいのはわかりますが、自分の政策の目玉なのだから、必死にアウトプットをしてもらいたいです。
お二人とも、頑張れ!

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上司の前では裸踊りの、外務官僚

【外部牽制のない組織は、内向き組織になる 外務省】 AERA 09.2.16

Photo AERAの勝間対談は面白いです。 わずか3ページの企画ですが、もっと読みたいです。
今回は、背任容疑で、国家と係争中の佐藤優氏です。 実はよく知りません、笑。 代表作「国家の罠」も読んでいません。

今回の対談を読む限り、官僚、特にキャリア外務官僚に対する怨念が爆発しています。

外部から全く牽制を受けないので、外務省内部の組織ロジックが、外交官僚の行動原理になる
・公務員とは完全に別の給与体系で、極めて高く、霞が関の中でも独特のポジションで、仕事がしやすく、自らの組織を守ろことが自らを守ることになり、外交官僚は組織に忠実になる
・そういった内向きの組織では、外務省の中での評価が、結局、自分の評価というアイデンティティになってしまうため、とにかく「出世」のためという動機が、他組織より、極めて大きい
・したがって、他者から見ると、驚くような行動がよく見られる
・その時のトップに媚を徹底的に売る行動に出る

・この行動原理が、外交政策に出てしまう
国益について、長期的なスパンで考えるという骨太な政策はなく、組織や政治家の「目先の事情」に大きく影響されてしまう
・だから、外交目標がなく、その場、その場の「つなぎ外交」が、日本の外交。 エクスキューズを積み上げて、事後的に目標を設定していく
・だから、日本は、経済力の割には、外交でのプレゼンスが低い

勝間女史が「自浄作用は、ないんですか?」と突っ込むと、「ないです」とばっさり。
そして、外部からも牽制が起こらないとも言い切ります。

なぜなら、「日本外交で国民は何も困っていないから(困っていると認識していないから)」。
国民の支持なくして、政治家も、伏魔殿に切り込んでいかないということでしょう。

外部からの牽制がない組織は、必ず腐敗するというか、組織内部ロジックが行動原理になり、環境の変化に対応できなくなるという典型でしょうか。 普通、組織は崩壊するのですが、外務省の場合は、構造的に守られているので、しばらくは健在なのでしょう。

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ボランティア活動家に、清貧を求めるな

【ボランティア活動家に清貧を求めるな】 AERA 09.2.9

Photo_2 前回ピックアップした、湯浅勝間対談の後半で、以下のようなやり取りがありました。

湯浅 「ボランティアというと、清貧が求められる。 野宿者を自分の家に連れていけばいいじゃないか、と言われる」
勝間 「湯浅さんが、豪華マンションに住んだら、叩かれるわけですね
湯浅 「反貧困活動は、自分にとって利他の精神でやっているわけではない。 貧困を放置する世の中が嫌だからやっている。 でも、この気持ちが理解されるのは、まだ時間がかかるかな」

そうなんですよね、ボランティアというと、結構ストイックな生活が求められるし、すべてをボランティアに捧げることを求められる風潮があります。 それは無理ですから、求めないでください、笑。 これを求めたら、誰もボランティアできません。

「自分の生活の少しの時間を、社会をよくするために費やす」、「自分のお金の一部を、社会をよくするために、任意で寄付する」、これで十分なはずです。 それ以上を求めるのは、酷です。 「少し動く」、これが尊い活動なんだと思います

多くのヒトの「少し」の積み重ね、積み重なったものを、まとめるコアパーソン(NPO等の有給スタッフ)の組み合わせが、継続するボランティア活動の秘訣だと思います。

「少し」でいいのです。 その「少し」に、「もっと」を求めるのはおかしいで、「少し」だけを非難することもおかしい話です。

貧困者を助ける数時間の活動が終わった後で、プライベートで豪華フレンチディナーというのも、当然ありなのです。 その豪華フレンチディナー代で、貧困者を助けよというのは、大きなお世話。 数時間の活動自体が尊いもので、それで十分なのです。

湯浅氏が、豪華マンションでも全然オッケーだと思います。 もちろん、貧困者をネタに商売して豪華マンションだと、さすがに問題ですが、例えば、親がお金持ちとか、前職がゴールドマンサックスで豪華マンションということであれば、オッケーだと思います。

ボランティアという、他者に貢献するという活動、精神を、そのヒトの生活すべてに求めるのは、酷です。そのヒトの生活の、ほんの一部でも、そういった活動、精神があることが尊いのです。 

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貧困者の本当の苦しみの理解が、セーフティネット政策の第一歩

【貧困者の本当の苦しみ】 AERA 09.2.9

Photo 反貧困の湯浅誠氏と、勝間女史の対談です。
今回の派遣社員問題は、やはり複雑で、争点を整理して話を進めないと、意見がかみ合わなくなってしまいます。

・不況時に会社都合で、合法的に安易にリストラされてしまう、「派遣法の問題」
・そういったリストラにあったヒトも含めて、「貧困」に陥ったヒトを社会的に助ける「セイフティーネットの制度問題」
・そもそも社会が助けるべき「貧困」の定義
「貧困」に陥ったヒトの(苦しみの)心理が理解されないことによる、社会的支援への共感が盛り上がらないこと

と勝手に4点を挙げさせてもらいました。
現在の一般的な報道は、「製造業の派遣社員リストラ→貧困→セーフティーネットの欠陥」という流れに沿って行われています。
「リストラで貧困は確かに可哀想」、「困っているヒトにとって敷居の高かったり、対応が遅い役所の問題も酷い話」、「結局、政治家は会社側の見方だし、役所は仕事が遅い」という世論がベースになっていると思います。 この世論と相互連動しながら、報道は行われていると思います。

しかし、なかなか報道はされないのですが、「でも、今まで稼いだお金は貯金していなかったの?」、「仕事がないとはいうけれど、毎週日曜日の求人折込には、かなりの仕事が募集されている」という感覚も世論にはあって、「困っているヒトを、税金を使って、どんどん助けよう」という流れが、どうも盛りあがりません。 盛り上がるのは、この問題はを契機とした、「政治家・役所バッシング」です。

その流れを、湯浅氏はよくわかっています。 だから、一番訴えたいのは、争点の4番目だと言っています。

・貧困に追い込まれたヒトが、普通のヒトのように、仕事探しができるわけでない
・それくらい、精神的に疲弊している
・貧困が継続しているヒトは、本当に疲弊していて、長い間の「痛み」は、「回復」のために長い時間がかかる
・普通に求職活動をして、普通に前向きに仕事をバリバリするという状態になるまで、「リハビリ期間が必要」という寛容さを持ってもらいたい

という感じで訴えています。 また、貧困者の精神的な悪循環として、「自己責任論で、普通に働けない自分を責める」、社会的支援をもらうことで「二等市民」という劣等感を抱くことをあげています。 働くことが社会性のアイデンティティーであると育てられているので、働かない自分を、どうしても自己否定しまうと言っています。

貧困者独特の精神的悪循環によって、働くことに対する動機付けが、通常のヒトより弱く、それこそが貧困問題で理解されていない部分であり、この部分が理解されないと、貧困を社会的にサポートするという内容が、どうしもずれて議論されてしまうと言っています。

生活保護にしても、99.97%は適正な執行だが、0.03%の不正受給が大きくニュースで取り上げられるので、生活保護の結構な割合が不正受給という印象となり、貧困を支援するという動きが、なかなか盛り上がらないのも問題と言っています。

勝間女史は、「社会的弱者に対する市民の成熟度の問題」とまとめています。

追い詰められたヒトの苦しみ、そこから這い上がろうとしても「過酷な現実」を経験してしまうと、尻ごみしてしまうという当然の帰結。 概念的には、湯浅氏が言っていることを想像することができますが、なかなかしっくりこない部分もあります。

「単に頑張りが足りないだけじゃないの?」、そういった気持ちも、フッとよぎります。
でも、「そうじゃないんだ」と湯浅氏は言います。 

追い詰められたヒトの苦しみを、じっと想像してみましょう。 まずは、そこからなのかもしれません。

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短期の利益を煽ると、リストラが激しくなる

【企業の雇用責任どこまで?】 朝日新聞 09.2.8

「企業の雇用責任はどこまであるのか?」という、テーマで3者が持論を繰り広げています。

小谷野毅 全日本建設運輸連帯労働組合書記長
(組合の意見の代表が、このヒトなのか?という感じ。 ちょっと過激なヒトです)
・従業員を切ることに、経営者が、道義的な責任を感じなくなった
・行政もセーフティーネット設計に失敗(非正社員向けのネットができていない)
・派遣切りをした、(内部留保の厚い)会社がお金を出して、救済基金を作るべき
・会社は社会の公器、簡単にヒトを切ってはいけない

島田晴雄 千葉商科大学長(労働経済学、小泉政権のブレーンのひとり)
・世界規模でコスト競争を迫られている企業にとって、合法の範囲でヒトを切ることは当然
内部留保を雇用維持にあてるのも反対、内部留保は企業の長期的投資のための原資。 雇用維持が長期投資だと判断するかどうかは、経営者が行うべき(それを株主が評価する)
・雇用問題の矛先は企業でなく、政府に向けるべき
・政府の対策がダメなのが、根本的な問題

大坪清 レンゴー社長(派遣社員1000人を、今年4月から正社員化する会社。東証1部上場)
・社員が安心して仕事をすることによって生産性が向上することは間違いない。 安定的に雇用を継続するということは、会社の長期的な利益につながる
・だから、安易に首切りはできない。 短期の利益を負うべきでない

私の意見は、島田さんに近いですし、大坪さんも、ほぼ同様な内容だと思います。

上場企業は、法律の範囲内で、どれだけ利益を出すのか?という目的のためだけに存在します。 もし、これを否定するならば、株式市場という制度自体をひっくり返す必要があります。 現状の制度である限り、企業の対応は仕方ないと思います。

一方で、どれだけ利益を出すのか?という点ですが、短期的、長期的な視点があります。 この視点こそが、議論の分かれるところだと思います。
短期的に、とにかく利益を出せということであるならば、ヒトを切るという選択も仕方ないのですが、長期的により高い利益を出すということであれば、短期的なヒトのリストラの繰り返しは、おそらくNGだと思います。

企業は、やっぱりヒトなんです。 優秀なヒトと、優秀でなくても「実直に」仕事をしていくヒトがチームになって、より高い生産性を生んでいくのです。 現状の付加価値は、資本でなく、ヒトで生まれる部分が圧倒的に大きいのです。
「実直に」仕事をするヒトにとって、「実直に」仕事ができる環境のひとつが、「雇用の安定」であると思います。

だから、長期的な利益(成長)を大事にするならば、大坪さんが言うように「安易に首切りはすべきでない」と思います。 
ただし、そんなことより、来季の利益が大事ということであれば、首切りをして固定費を下げることは必須だと思います。 株式売買をして短期的なリターンを負うヒト、それを煽る証券アナリストや日本経済新聞にとっては、「来期の利益」が大事なので、首切りは当然でしょうという感覚だと思います。

ただ、売上が伸びている時に企業は拡大していくので、売上減の時には、それなりの対応をする必要があります。 それなりの対応とういのも、本当にケースバイケースなので、企業側の、ギリギリの雇用責任を求めるのは、現実的でないと思います。

結局、この雇用問題は、政府側の問題だと思います。 何らかの理由で、仕事にあぶれ、かつ次の仕事に自力でたどり着けないヒトに対して、お金を使って支援すべきなのでしょう。 膨大な金額だとしても、それが政府の仕事だと思います。 大型土木事業をやめれば、1兆くらいの予算は捻出可能です。

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当事者として、原爆の惨状を伝え続けること。 それをリレーすること

【突き動かされたもの ジョー・オダネル】 NHKスペシャル 『米軍カメラマンが見たNAGASAKI』 08.8.7

2 少し前のNHKスペシャルです。 まさに、NHKの存在意義のような番組です。

長崎の原爆(破壊力)記録のために、終戦直後に長崎に駐在した、米軍カメラマンの軌跡です。
軍律を犯して、彼は、被爆直後の長崎の市民をこっそり撮影しました。そして、その写真は、40年以上、個人的に封印されてきたのですが、彼が60歳を超えたところで、その写真をもって、「原爆利用の是非」を問いたいという信念を確立しました。
アメリカの退役軍人からは、大きな反発を買い、日常の生活の平穏も崩れ、困難が続くのですが、信念を突き通し、20年以上の反核運動を行い、85歳で生涯を閉じました。

1 爆心地の光景は、まさに「この世のものとは思えない」惨状で、米軍カメラマン、ジョー・オダネル氏は、衝撃を覚えました。
そして、それ以上に、被爆した日本人、両親が亡くなって、残された子供たちの惨状を見て、言葉を超えた衝撃を覚えます。
彼は、そういった様子を撮影することは軍律違反であることを承知して、その様子を撮影します。

その光景は脳に焼きつき、「夜も眠れない」状態が続きます。
「原爆は、戦争を早期に終結させるために必要なもの。
早期終戦こそが、アメリカ兵士の被害を小さくする」というアメリカ国家の主張、一方で、原爆を投下された、「この世のものとは思えない」日本の惨状。
この結び付けがたい二つの内容に、オダネル氏は心を痛めたのだと思います

その苦悩から逃れるために、彼は写真を40年以上封印し、あわせて彼の記憶・苦悩も封印していました。
しかし、ある日、偶然立ち寄った教会での出来事で、封印が解かれます。

ヒトがヒトを、ためらいなく殺しあうという「戦争」は、いかなる理由でも回避すべきなのか?、その延長上で、核兵器を利用することも、いかなる理由でも回避すべきなのか?

非常に大きな問いです。 「回避すべき」という教育がされています。
しかし、現実は、世界各地で戦争(紛争)が起きていますし、核兵器も山のように存在しています。
戦争は起こっている、核兵器は存在するという事実と、戦争をやっていはいけない、核兵器は利用してはいけないという、人類の希望。

人類の希望は、実は、歴史の経験から引き出されたものです。 あまりに悲惨なことばかりの戦争は、「もう、決して繰り返してはならない」という、当事者たちの強いメッセージです。 後世の人間は、この強いメッセージを、深く頭に刻みこまなければなりません

表面的な言葉の理解でなく、常に頭のどこかにへばりついていて、機会があるごとに、それが強い意識となって呼び起こされるという理解をすること。

そのためには、当事者が「伝える努力」を必死に行うことと、後世の人間が先人のメッセージを真摯に聞くこと、この双方向のコミュニケーションが必要ですし、そのコミュニケーションを意識的に設計するのが、人類の進化、知恵なのだと思います。

オダネル氏は、「当事者として、語らなければならない」と確信したのでしょう。 写真という、非常にインパクトのある題材を持っている以上、それを使って、後世に伝えなければならないと思ったのでしょう。我々は、彼のメッセージを、真摯に受け取り、そして次の世代に語り続ける必要があります。

戦争は「憎しみの連鎖」を簡単に起こします。 オダネル氏の「原爆投下は誤りでなかったか?」という問いは、アメリカの退役軍人の怒りを引き起こしました。 政治的な動きの側面もありますが、退役軍人の中には、日本人に仲間を殺された経験を持つ以上、感情的に反発するのは当然です。
「仲間をやられたらやり返す」というのは、当然の反応で、この繰り返しが「憎しみの連鎖」を引き起こします。 

でも、「原爆投下の判断は、本当に仕方ないのか?」と、オダネル氏は問いました。
軍人でない市民が、広島長崎あわせて34万人死んでいます。(被爆後5年間) 被爆後遺症も残します。(オダネル氏自身、晩年、皮膚がんが全身に転移していました。本人は、爆心地での作業の影響だと信じています)

「原爆の結果は、あまりに酷過ぎる。 戦争という事態を考慮しても、度を超えている」というメッセージは、後世に語り続けるべきものです。 被害国である日本は、もっと強く後世に、世界に語り続けなくてはなりません。 核をもたざるを得ない、政治的現実がある一方、核を使ってないけないと、全世界で強く信じることが必要です。 それが、人類の知恵だと思います。

私は40歳ですが、学校でまったくそういう教育を受けた記憶がありません。 残念なことです。
私は、子供にきちんと伝えていきます。
(彼の写真をまとめた書籍が出ています。 「トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録 ジョーオダネル 小学館」)

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ヒトの愛は、どこまで広がるのか?

【民族対立に見られる「憎しみの連鎖」】 映画 ブラックバードライジング イタリア 2005年

Photo 前回のエントリーに登場するジョーカーのセリフに、以下のようなものがありました。
「ヒトは追い込まれたとき、つまり死にそうになった時に、そのヒトの本質が現れるもの」
(ちなみに、ジョーカーは、追い込まれたヒトが、他人を裏切ってでも、命乞いするシーンが大好き。 なぜなら、ヒトの利己性(自分がすべて)が、土壇場で出てくるから。 本当に、悪い趣味です)

戦争は死と隣り合わせですから、ヒトの本質が出やすい状態です。 ヒトの本質を描くために、戦争という背景を使うのは、映画の定番です。

今回の映画は、イタリア映画「ブラックバードライジング」。 コソボ紛争における、NATO治安部隊のひとつ、イタリア軍の活動が舞台となります。 日本人にはバルカン半島の歴史は、世界史で学ぶ程度で、実はよくわからいのですが、イタリアにとっては、身近な国の紛争なのでしょうか。
コソボ空爆の時は、爆撃機の離陸がイタリアということで、イタリアでは、きっと議論が巻き起こったんだと思います。

映画ですが、駄作です。 前回のダークナイトが大傑作だったゆえに、余計落胆も大きい、笑。 何とか最後まで見ましたが、早送りを結構しています。
娯楽性も、シナリオもダメです。 戦争映画の場合は、戦闘シーンの映像で「魅せ」ますが、ほとんど戦闘シーンはありませんし、あっても、カメラワークは凡庸です。 シナリオも、民族の対立の根深さ、その対立の仲裁に入ることの難しさ、対立によって起こる、人々の日常の悲劇など、モチーフはOKだとしても、その展開方法が非常に浅いです。

民族対立に見られる「憎しみの連鎖」、「憎しみの連鎖」に付け込む「悪意の連鎖」、「悪意の連鎖」によって起こる悲劇が、さらに「憎しみの連鎖」を生むという悪循環を、全く表現できていません。
中途半端に「憎しみの連鎖」を描き、アルバニア人とセルビア人の結婚という、身近な民族共生の幸せが、「憎しみの連鎖」を断ち切るきっかけになるという、能天気な暗示も、中途半端。

「愛は、紛争を止める」という、ナイーブなメッセージです。

確かに、愛は「善意の連鎖」を生むきっかけになるし、「善意の連鎖」のスピードを加速させて、信頼という絆を太くし、社会を安定化させます。
しかし、愛の広がりは、たいてい狭いのです。 せいぜい広がって、親族までです。 社会までには広がらないので、愛は、社会レベルで、「善意の連鎖」を起こすエネルギーになりません。
逆に、グループ単位(親族、地域など)の絆を太くする一方で、排他的な傾向を持たせるので、「身内や友達がやられたら、やり返す」という独善になりやすく、「憎しみの連鎖」を起こす可能性があるのです。

ここに愛の難しさがあります。
狭い範囲の愛は、範囲外に対して排他性を生むので、全体としての「善意の連鎖」を起こしません。 愛は、社会全体に広がっていないと、社会レベルの「善意の連鎖」が起こりません
対象が広がった愛は、愛と言わず、西洋では倫理、日本では道徳と呼ぶのでしょうか?

いずれにせよ、駄作です、笑。

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脆弱な「善意の連鎖」

【悪意の連鎖、善意の連鎖】 映画 ダークナイト アメリカ・ワーナーブラザーズ

Dark_knight 公開から遅れること半年以上、ようやくDVDで見ました。 評判の通り、傑作です。 社会的な視点と、娯楽性を見事に融合させた、考えさせるし、一方で映像とシナリオに引き寄せられるという、あっという間の2時間半。 これは、テレビでなく、スクリーンで見たかったと、本当に後悔です。

娯楽性のコメントは抜きにして、社会的な視点を書きます。
基本的には、善のバットマンvs悪のジョーカーの対立というストーリーなのですが、ジョーカーは単なる悪でないところに、この映画の深みがあります。

ジョーカーは、「ヒトには『利己性をベースにした悪意』という本質があるのに、その本質にあらがおうとする、ヒトの善意っぽいもの(利他性)」を、徹底的にこけ落とします。 そして、ヒトの善意っぽいものをおいやって、悪意を引き出すことに、執念を燃やします。

そう、放っておけば、ヒトは好き勝手やるのに、ヒトは何とかルールを守って、そして社会が回っている現状が、どうしても好きになれないのがジョーカー。 その秩序と平穏は奇跡であると。 奇跡ゆえに、脆弱でもあり、ちょっとひと押しすれば、ヒトの悪意の連鎖を呼び、秩序と平穏は一気に崩壊するはずで、そのひと押しをして、悪意の連鎖が巻き起こるのが、楽しくてしょうがないというのが、ジョーカーです。

普通の悪は、「お金が欲しい」からルールを破るという、単純な欲望がベースで、ある意味、わかりやすい悪ですが、今度のジョーカーは、ジョーカーの発言や仕掛けを通して、誰もが持っていて、自分の中で封印されている「悪意」を見つめるように、仕向けます。 ここに、この映画の凄味があります。

そして、そのジョーカーの存在によって、バットマンが守ろうとする、ちょっとしたきっかけで壊れてしまう、脆弱な「(極論を言えば、他人のために死ねことも選択できる)ヒトの善意」がフューチャーされます。 

ジョーカーの考える通り、ヒトは悪意を抱えているが、それを善意でコントールしているのも事実。 そして、善意は脆弱で、「お互いがお互いを信頼している」という、際どい前提で、その善意の連鎖が起こって、社会が回っているのも事実

その吹けば飛びそうな、「善意の連鎖」を、必死に守り続けようと、意識的に振舞うのが、バットマンです。ジョーカーを通して、自分の悪意に向き合わせ、バットマンを通して、脆弱な「善意の連鎖」を意識させるという、極めて高度な内容を入れ込んだ、素晴らしいシナリオです。

バットマンは、自分が捨て石になっても、その「善意の連鎖」を守ろうとします。 

政治家は、自分が捨て石になっても、社会を支える「善意の連鎖」を守ろうとする気概はあるのか? エリートは、それくらいの使命感に自覚的であるべしというのが、映画の(政治家に対する)メッセージのような気がします。

社会は、ルールと制度で回っているのですが、そのルールと制度が成立する前提に、「お互いの信頼」「善意の連鎖」があるのです。 その信頼、連鎖を成立させるには、どうすべきなのか、これこそが、本質的な政治論だと思います。 まぁ、票にはなりませんが、エリートは、そこまで考えて、社会のルール、制度を設計すべきです。

難しい話ばかりしていますが、娯楽性の部分も素晴らしいです。 
そして、ジョーカー役の、ヒース・レジャーが作りだす「ジョーカーの世界観」が、不気味でありつつ、引き込まれそうなインパクトを持ち、これだけで、映画にのめり込み可能です。

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行政がサポートする、「市民の政策作り」

【住民が主導する行政施策 鳥取県智頭町】 にっぽんの現場 NHK 09.1.31

Photo 鳥取県の智頭町という、人口9000人弱の町の、ある意味、正統派民主主義のチャレンジを特集した番組です。 わずか25分と、あっという間の番組ですが、非常に興味深いものでした。

町長が市民の意見を聞いて、町の運営を行うというのが文字通りの民主主義なのですが、これをベタにやっているのが、その智頭町。 「百人委員会」という住民代表者による委員会で、政策作りを行います。その政策を役所側が検討して、予算案・条例案として3月の議会にかけるという内容です。 その「百人委員会」は、町の経営企画部である、企画財政課が担当・サポートしますから、形式でなく、本当にやろうとしている意気込みを感じます。

平成18年度の決算カードを見ると、普通の過疎の町という感じですが、実質公債費比率が20%弱と、下水道や病院などの特別会計で、結構な借金があるみたいです。 財政破綻のちょい手前の節約モードという状態のようです。

地方自治は二元代表制ですから、町長が独自に市民の意見を聞いて、町運営を行うというのは当然なのですが、ここまでベタにやるのは珍しいです。
行政の多くは、市民の意見というよりは、前年の内容を踏まえて、自分達に都合の良い政策を(議会の顔を見ながら)作りますから、それを引っかき回すような政策案、つまり住民が勝手に提案する政策などは、「いちいち構っていられるかい!」ということです。

智頭町の百人委員会でも、全体の体系を無視した、住民の好き勝手な提案というか、要望的政策案が出てきます。 今までの流れを全く意識しない、拡散した政策案は、役所のスタッフ的には、「いい加減にせい!」という内容だと思います。 いったいどのように取り込んでいくのか、これはこれで3月が楽しみですが、番組は、この辺は全く無視です。

番組は、行財政委員会という、いわゆる行革を提案する委員会だけを追っかけます。 ここでは、どのように行革を行うかということが、住民で検討され、公務員と議員の給与をカットする提案が決定されます。もちろん、公務員も議員も大反対なので、こういった内容は、確かに、内側から出てきません。 内側の人間に都合の悪い政策案が出てくるというのは、住民が政策に関与する、大きなメリットだと思います。

公務員の勤勉手当廃止(年間30万弱)、50歳以上の昇給停止、議員は日当制という内容です。 内容自体は、最近の流行りを取り入れたものです。

この智頭町のチャレンジは、良い面、悪い面があると思います。 良い面は、組織内側から絶対に出てこない、厳しいリストラ案が出てくること。 悪い面は、政策なのか、要望なのか、よくわからない、ピンポイントの政策案(アイデア)が、バラバラと出てきて、余計混乱してしまうこと。
悪い面は、進め方でコントロール可能だと思います。 問題意識を絞り、その問題意識に対応した内容だけ提案するような形にすれば、混乱は小さくなると思います。

このチャレンジはありだと思います。 行政の積極的な情報公開をベースがあり、行政の仕組みを理解していけば、この百人委員会的なものに参加した住民の民主主義意識が覚醒することは間違いないと思います。 議論は紛糾するかもしれませんが、意識の高い住民の皆さんが、行政運営について徹底的に議論することが、良い行政運営の大前提だと思います。

こういった議論をすると、「議会を軽視している」と言う議員さんがいますが、それは二元代表制を誤解しています。 町長・市長の行政側も民意を聞いて政策を作り、一方で議会も独自に民意を聞いて政策を作ったり、決議したりするのが、二元代表制なのです。 二つのサイドの民意をぶつけて検討していくのが、二元代表制、つまり日本の地方自治のルールなのです。

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政策を語るには、現行の制度法律体系も知るべし

【法律の本質は、法文・政令文に宿る 高橋洋一】 AERA 09.2.2

2 反官僚の、元官僚の高橋氏が、勝間女史と対談をしています。

そこで、今回の「国家公務員制度改革」のドタバタを取り上げています。 2007年に成立した改正国家公務員法では、官僚OBが天下りを繰り返す「渡り」を全面禁止としました。(現役の天下りは、(中立である予定の)「官民人材交流センター」が管理)
しかし、その法律の運用を決める「政令」で、「事情がある場合は渡りOK」という内容を入れ込み、これを麻生内閣はOKを出してしまいました。(政令は、閣議決定です)

この身も蓋もない、官僚の保身行為に、渡辺喜美さんは激怒。 麻生首相の安易な判断にも激怒。 しかし、麻生首相はスルーだし、マスコミも比較的記事少なめ。 (ただ、さすがにヤバいと思ったのか、1月29日に、自分が首相である限り、OKは出さないと言明)

この麻生首相の初期対応の拙さを、高橋氏は、「麻生首相は政令を読まないで、OKだしているだけ」と指摘しています。 「100ページにもおよぶ、難解な日本語を読むのは無理」ともフォロー。 しかし、その政治家が政令を読まないという前提を利用して、内容をひっくり返してしまうのは、官僚の方も、あまりに酷いともコメントしています。

上記の例を通して、政治で何を変革していくには、実現のための政策アイデアと、現行の法体系の理解がないと難しいと指摘しています。 アイデアだけで、それが制度法律論に落ちていなければ、どんな政策案もジャンクだと、バッサリです。
民間の政策提案は、ほとんど制度法律論との対応が落ちているので、現実的には「全く使えない」と。

保身の官僚、使えない民間の政策アイデアと、これでは政治は変わらないのですが、そこで高橋氏は、「政治家と一蓮托生の、半官半民のスタッフ」が活躍できる制度を作るべしと提案しています。 おそらく、アメリカ型の行政人事です。

「制度法律体系を知らずして、政策を語るな」というのは、ある意味、正しい指摘だと思います。 ひとつの政策は、その実施のために、様々な内容を想定し、また他の法律との整合性を検討した上で、運営ルールを作り込まなくてはなりません。 つまり、「あるべき姿を単に描いた政策は、政策にあらず」ということなんだと思います。 実務家の指摘です。
だからこそ、制度法律に詳しいスタッフを、政治家につけろ!ということなんだと思います。 本来は現状の官僚がそうあるべきなのですが、長年の歴史によって、官僚は自らの組織のためにしか動かず、官僚は、保身のための政治家と結託し、一線を越えた政治家と一緒に、全体を牛耳るという、悲しい現実があります。

次の必要な本当の改革は、まずは「霞が関の人事制度」なのかもしれません。 つまり、事務次官を含めた上級職を、政治家が任命する制度です。 これができる政治家こそが、本当の政治家なのかもしれません。

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